キラキラSmile✨奇跡の軌跡

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★1型糖尿病との出会い

 

私は大阪の吹田に1988年に誕生しました 

10歳まで風邪すらひくことのない、とても元気な女の子でした 。食べることも大好きで丸々と太っていましたが、10歳のとき急に何もしていないのに半年で10Kg体重が落ちました。

ぽっちゃりしていたので努力もしていないのに痩せれてラッキー!ぐらいにしか思っていませんでした

ですが、おかしいと思った母が私を町医者に連れて行きました

 個人クリニックだったためか診断結果は原因不明。

体調は良くなかったので、 通院は続けていました。

それから1か月くらい経った秋のある遠足の日、朝起きてきた私は呼吸困難になってしまっていました。

 

「めっちゃ遠足楽しみにしてたのにしんどすぎる..今日は遠足無理や..」 そう思い楽しみにしていら遠足を諦め母にいつもの個人クリニックに連れて行ってもらいました 

その時呼吸がうまくできていないと私を見て医師は過呼吸だと判断し、 口に紙袋を当て二酸化炭素を吸えば治まる、と紙袋を口に当てることを指示してくれました

ですが一向に良くなる気配がない私を見て、見兼ねた医師は救急車を呼び、大きな病院へ運ばれました

 私の意識は病院に到着したときにはなくなっていました

「意識を取り戻したとしても脳に障害が残る可能性が高い」と医師から両親は告げられたそうです

   その中で両親に告げられた診断名は一型糖尿病

 一生インスリン注射を自分で打ち続けなければならない生活になると。

両親は相当ショックだったと当時を振り返り話してくれました

数日後私は意識を取り戻しました

それから始まった食事制限とインスリン注射生活

(今は糖尿病でも食べられないものはないと理解していますがその時は食べてはいけないものをたくさん言われました)

インスリン注射については小学生の間から注射器が扱える、と変な優越感を感じ注射を打つこと自体に嫌悪感は持っていませんでした

ですが食事制限が私にはあまりにも酷でした

今まで好きなものを好きなだけ食べていたのに病院食はまだ小学生の私にとったら悲しすぎる食事ばかり

一番印象的だったのが朝食が食パンと牛乳と大嫌いなトマトジュースと大嫌いなゆで卵。

 

唯一の入院中の楽しみは食事なのにその食事が大嫌いなものだらけで泣きそうになりました

そんな病院生活を何とか乗り切りました

 

そして2か月近くの入院生活を経て退院しました。

退院してからは母が私の食事の管理をしてくれていました。

食事制限はあるものの病院より数百倍まし

母は試行錯誤し、食事を作ってくれていました

血糖値も小学生の頃は親の監視下にあるため、コントロールは良好でした 。

 

★糖尿病と仲違い

tしかし中学生になった途端親の監視下から離れ、買い食いなどを始めてしまいました

今まで監視下にあったため食べれていなかったものは、とてつもなく美味しく感じました

【じゃあこれから隠れて食べたらいいやん】

と自分の体のことを考えず親から怒られないように、隠れて食べるということをそれから始めてしまいました

 

その上友達など周囲には糖尿病のことを黙っていました

何となく病気があることは告げたものの食事制限のことを詳しく話さずみんなと同じように食べていました

みんなと同じようにというより私が誰より一番たくさん食べていたように感じます

家では食べれないジャンクフード、お菓子

今まで我慢していた分余計においしく感じました

まさに何かにとりつかれたかのように食べてしまっていました

 

最初はインスリン注射をしていたものの、食べたら食べた分だけ太ってしまう

病気になるまでぽっちゃりしていて、からかわれたり、いじめられる存在だった私は痩せて周囲の反応が変わりました

「痩せている」=「夢のような生活」で「太っている」=「地獄のような生活」と思っていました

だから太ることに恐怖を抱いていました

 

そのとき私に悪魔のささやきが

インスリン注射をしなければ痩せられる、と

インスリン注射をしなければ糖質がうまくエネルギーとして使われなくなるため痩せてしまうのです

痩せるというよりやつれるという表現のほうが正しいかもしれません

体重は落ちますがもちろん体にはダメージありまくりです 

血糖値が高いままなので血管には負担がとてもかかります

 

そんな生活を10年以上つづけていました 

体の血管はどんどんボロボロになっていきました

常に血糖値が高く眠いしだるい状態が続き、まともに勉強もできない日々でした

高校が付属している中学校だったため、高校受験はせずにすみましたがクラスは下のクラスに落ちました。

高校生活も勉強も部活もしない日々でした

食べ物と自分の体型のことで頭がいっぱいの日々。

 高校生現役のころは大学受験に失敗 

卒業することはできましたが行く大学もなく予備校生に。

予備校生となり【このままじゃやばい】と思った私は血糖値を上げない生活をしました 

インスリン注射をきちんと打つという選択肢ではなく、食べるものを変えて血糖値を上げないということをなぜか選んでしまいました

それからの生活はこんにゃくとサラダで毎日血糖値を上げない食事をしてすごしていました 

シュガーレスのガムを噛み集中力を上げていたので勉強は捗りました

そんな生活を送り大学受験は合格 第一志望の大学に入学できました 

大学では自分の病気に役立てることができるだろうと栄養学を学びました 

大学生になった途端、もとのインスリン注射を打たずにたくさん食べる生活にもどりました

常にだるくて眠いやる気のない状態

 そんな生活を送りながらも国家試験の勉強は真面目に行い大学卒業時に国家試験に合格 

管理栄養士の免許を取得しました

 大学も無事卒業しました

 その後派遣社員で特定保健指導をする仕事に就きました

 この仕事は本当に楽しかったです

お話した相手が生活習慣をほんの少し変えるだけで数値は改善され、いきいきと楽しそうに過ごされてる姿を見るのは本当に幸せでした

 

★糖尿病が牙を剥く

そんな生活も長くは続かず毎日朝から晩まで働くことが本当にしんどくなってきました

体のだるさがピークを迎えたのです

何度か意識が遠くなることもあり「このままでは死んでしまう」とこの状況になってやっと、自分の体のことを考えたのです

ずっと拒否していた入院を、自ら主治医に頼み込みました 

入院時は瀕死状態で病院の権威ある医師にも成すすべがない、と匙を投げられてしまいました 

ですが長年付き合いのある先生が何とか私を助けたいと試行錯誤してくれました

糖尿病の原点に戻り栄養を点滴しながら血糖値をコントロールすることに徹する処置を施してくれ、見事命は助かりました 

そして視力の検査も怠っていたので検査をしたとき私の症状は失明寸前。

がけっぷちにいる、失明も覚悟しないといけない、と告げられました。

そういわれた時は生きた心地はしませんでした

失明の恐怖が全身を襲いました

目の手術も何度も受け左目の視力は0.01程になってしまったものの右目の視力は生活できるくらいの視力を保てました。

この時手術してくれた医師には本当に感謝です。

 

そのあとは新生血管だらけだったので目の血管はロボロで何度も眼底出血を繰り返しました。そのたび失明の恐怖と戦いました。

本当は眼底出血だけでは失明することはないものの左目が殆ど見えていない私は右目が眼底出血を起こしてしまうとまったく見えなくなってしまうのです

失明するかもしれないという恐怖は本当にいたたまれないです。

目が見えなくてもポジティブに生きている人をこの時は知らなかったので失明する=生き地獄だとさえ思っていました

この眼底出血もあまりにも頻繁に繰り返してしまったため、水晶体のゼリーを水に置き換える手術をしてようやく眼底出血は起こらなくなりました。

そしてその後血糖値のコントロールに精を出した私ですが急に血糖値を良くしてしまった為か、体に異常が出てきました

1番最初は全身激痛になりました 

夜も眠れないくらいの激痛

 2か月くらい激痛に耐え入院生活を送りました 

その間ももちろん血糖値のコントロールはきちんと行っていました

ヘモグロビンエーワンシーは小学生以来の6%台

 その結果激痛からは解放され漸く退院することができました 

退院後自宅で過ごしていましたが退院して数日後、急に椅子から立ち上がることが困難になりました 病院に行って診察してもらうも、主治医には入院生活が長かったから筋肉が衰えているだけだからすぐに戻る、と言われました

ですが、どんどんひどくなる一方。

再度、病院に行き検査してもらったのですが原因不明 糖尿病の合併症だろうということになり、処置のしようもなく自宅にいったんもどりました 

その際介護ベッドでの生活になりました。

起き上がることも歩くことも自分でほとんどできない寝たきり生活になってしまったのです

 介護ベッドで生活していたある日、呼吸がしにくくなり病院へ。

その時はまだ原因がわからずとりあえず在宅酸素導入で帰宅することに。

介護ベッドと在宅酸素を使いながら自宅と入院の繰り返しでした。

 検査でようやく僧帽弁閉鎖不全症と判明 。

手術することになりました

手術する前に手術は成功の確率が50%だがこのまま手術するか、手術なしで薬を使いながら2~3か月に一回入院する生活を送るかどちらがいいか?と医師に聞かれました

私は即答で『手術する』と答えました

このまま入退院の生活になるくらいなら手術で失敗して死んでしまった方がいいと思いました

それになぜかこの時、手術が失敗に終わるわけがないと妙な自信がありました

予感は的中。

見事手術は成功。

手術は成功したものの、もともと悪くなっていた腎臓が手術のダメージを受け、坂道を転がる如く、悪くなっていきました その時医師に透析導入まであと半年くらいと宣告を受けました

頭の上に雷を落とされたような気持ちになりました。

「透析導入=人生終わり」と思っていた私は、今までの自分の行動を本当に本当に後悔しました

「今が良ければそれでいい」と思っていた過去の自分を恨みました

ですがもう過去には戻れない。

透析を受け入れるしかなかったのです。

 その時母が腎臓移植のドナーになる、と名乗り出てくれました 

本当に本当に本当に感謝しました

私の今までの行いのせいで母の体にメスを入れ腎臓を一つにしてしまう…そんな自分を恨みました

そんな自分の行いのせいでこうなってしまったのに母は快く腎臓移植のドナーになってくれた

もし腎臓を一つもらって透析から離脱できるなら、その後の人生は周囲の人に笑顔に、幸せになってもらえるよう生きようと心に決めました。

そして何より自分を大切に自分を幸せにしないと母に顔を向けれないと思いました。

それから母から腎臓を一つもらうことが決まり、 腎臓移植の準備に取り掛かりました 

準備はたくさん検査をするため半年くらいかかります

 透析導入までに何とか間に合わせたかったのですが、透析を宣告されてからわずか三か月後に透析導入となってしまいました

 透析クリニックには車いすで通いこの時も家族にとてもお世話になりました

透析を受けながら腎臓移植の検査も同時に進めていました 

そして30歳になってすぐの1月17日、母から腎臓を一つもらう腎臓移植の手術を受けました 

母から二度目の命をもらいました 

この時私は本当に今までのすべての環境に感謝して自分の体を大切に生きることを決意しました

自分の身を削ってまで私を助けてくれた母。

それを支えてくれた家族。

今まで私に出会ってくれた全ての人たちに感謝しかありませんでした。

 

2か月ほどリハビリ入院を経て自宅に戻りました

すぐには社会復帰できなかったため1年間は会いたい人に会いに行くという一年にしました。

 

★奇跡の復活

翌年の春、 社会復帰できる体になったので会社に就職。

事務としてOLをしていたのですが自分はこんな体験をしているのには何か理由がある この経験を語り、世の中の糖尿病になってしまう人、糖尿病を持っていても合併症を引き起こさない人を一人でも増やす、ということをしなければならないと感じました

 私に今命があるのはこの使命を神様から委ねられたからだと感じました

 

私はこの経験を通じて、健康への向き合い方や大切さを伝えたいと思っています

糖尿病は決して怖い病気ではありません

ただ向き合うことができずうまく付き合えなかったら「怖い病気」に変貌してしまいます。

私は合併症に向き合っているとき本当に苦しかったです。

体も心も辛かった

糖尿病を私は理解せず向き合おうともしなかった

その結果起こってしまった出来事です

だから皆様に本当の糖尿病のことを知ってもらい、私と同じような経験をする人をこの世の中から消し去りたいと思っています

 

私は命を落とすことはなかったですが合併症は命を奪ってしまう物もあります

糖尿病と向き合えずうまく付き合えなければそんなことも起こりえます

自分を大切にし、過去の自分を許し、前向きに未来を歩む。

自分の心臓はおんぎゃぁと生まれた時から今までひと時も休むことなく自分のために鼓動を打ち続けてくれています

体は苦しい時も楽しい時もいつもあなたの一番近くであなたを見守ってくれています

そんな自分の体をこれからも守っていくためにも糖尿病という病気を自分の個性と自分と向き合っていく方が増えることを私は心から望んでいます✨

そして糖尿病の合併症で苦しむ人が世の中からいなくなることを祈っています

 

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